2008年危機:経済学への/からの構造的な教訓[]
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- “The Crisis of 2008: Structural Lessons for and from Economics”
- Daron Acemoglu, MIT
- 2009年1月
- Ricardo Cabellero, Simon Johnson, Bengt Holmstrom そして James Poterba のコメントに感謝する.言うまでもなく本稿で記された見解は全て筆者のものである.
- '''Executive Summary'''
- 今回の危機において、経済学はいくつかあやまりを犯した。一つは、景気の波が平準化されてきたことを見て、もうあまり大きな危機は起きないような気分になっていたこと。二番目は、先進国で市場を機能させている制度をきちんと考えなかったこと(途上国の制度についてはあれこれ論じていたのに!)、第三に、古参企業は自分の評判を気にするから無茶はするまいとたかをくくっていたこと。これは謙虚に受け止めるべきだし、またこれをネタに経済学が発展する余地もあるだろう。
- しかし現状に対応するために経済学が与えられる教訓もある。まず、目下の一時的なGDP損失(たかだか数パーセント)より、長期的な経済成長鈍化のほうが影響は大きい。それを防ぐためには、イノベーションを促進し、それが可能な産業に資源をふりむけ(自動車や金融にいる人材を別の産業へ!)、そして政治経済環境が既得権益でそれを阻害しないようにすることだ。
- だがこういう議論は、いまの危機対応でまったく行われていない。景気後退で、イノベーションが起きる分野(新エネルギーなど)の発展も阻害されかねない。これは景気刺激パッケージで多少は何とかなるかもしれない。だがもっと深刻なのは、資本主義への不信で、自由市場を否定する産業国有化などの動きも再発しかねないこと。いまの救済パッケージは既得権温存と見られかねないものだし。そうした動きでイノベーションが阻害され、経済発展が阻害されるのがいちばん怖い。だから経済学者は、イノベーションと経済発展の重要性を、いまの救済措置の段階で強く訴えよう。(要約:山形浩生)
[はじめに]
2008年に起きたグローバルな金融・経済危機が歴史上のゆゆしき危機として,さらには比類ない破局的な出来事として語り継がれるのかどうか,我々にはいまだわからない.歴史上には,同時代人には時代を画することだと思われていたのにいまでは長らく忘れ去られて書き記されることもない出来事はいくつもある.もう一方の極に目を向ければ,大恐慌の初期局面にはその重大さを低く見積もるひとも多くいた.たしかに2008年後半が歴史書にどう記されるかを語るには早すぎるが,経済学という学問にとってこれが決定的な機会となっている点に疑いはない.我々にとって──ここで言う「我々」とは経済学という専門に関わる大多数のことで,不幸なことに私もその一人なのだが──,今はそもそも受け入れるべきでなかった概念の迷妄を正す好機だ.また,一歩下がって今回の教訓を考える好機でもある.我々の理論的・実証的研究のうち,最近起きたこうした出来事によっても寂れることのない知見から得られるもっとも重要な教訓は何だろうか,そして,そうした知見から現在の政策論議に得られるガイダンスはあるだろうか.
この小論では,まず我々が犯した知的あやまちがどういうもので,そうしたあやまちから将来へのどんな教訓が得られるかについて私の見解を示す.とはいえ,主な目的は過去の知的傾向のあれこれについて思案することではない.この危機を切り抜けていく上で我々や政策立案者が経済理論から教わることはなお沢山あることを強調するのが目的だ.経済的なパフォーマンスでも最重要の側面である各国の長期的な成長潜在力に関連する経済学の原理のいくつかはいまなお妥当であり,政策に関する理論的・実践的な検討にとって重要な教えをもたらしてくれるのだ,ということを論じたい.アカデミックなエコノミストとして言うなら,現在の政策がグローバル経済の成長潜在力にもたらす帰結とこうした原理こそ,いま我々が政策立案者たちに思い起こさせるべきものなのだ.
我々の知的迎合からの教訓 (Lessons from our intellectual complaisance)[]
[pp. 2-7]
危機はいまも進行中であり,金融市場や多くの企業の内部で起きたことについては不明な点が多く残っている.これから数年のうちにもっと多くのことがわかることだろう.いま我々が知っていることだけでも,今般の問題の根源はその多くがすでに明らかになっている.しかし,我々の大半は危機に先だってこうしたことを認識していたわけではない.3つの観念によって,こうした厄介な問題とその原因を無視するよう駆り立てられてしまった.
[第一の観念]
一つ目は,激しい乱高下の時代は終わりを迎えた、という観念だ.機敏な政策や新技術(たとえばよりよいコミュニケーション手法や在庫管理)によって,景気循環は手なずけられた、と信じられていた.より〔変動の〕穏やかな経済への信念によって,我々は株式市場と住宅市場についていっそう楽観的になっていた.どんな収縮もかならず穏当で短期に終わるのであれば,金融仲介機関・企業・消費者は資産価格の大幅下落を懸念すべきでないのだと信じやすくなる.
一人あたり所得とその予想変動率には負の関係があることはデータが明確に示している.また,多くの尺度からは,1950年代以来,おそらくは戦前期以来,激しい乱高下は目立って減少してきたことがわかる.しかし,こうした実証的なパターンが意味するのは,景気循環が消滅したということでもなければ経済の破滅的な出来事がありえなくなったということでもない.我々の経済をより分散型にし個々の企業をより安全にしたのと同じ経済的・金融的な変化によって,経済・企業どうしの結び付きは強まった.特異なリスクの分散を起こすただひとつの方法はこうしたリスクを多くの企業や個人で共有することだから,よりよい分散は無数の金融取引関係をも生み出すことになる.新たな金融商品は広範にわたる特異なリスクを分散させ企業の倒産を減らすから,こうした相互関係によって経済システムは小さなショックに対してより頑健になる. しかし,これらは確率の低い「テール」の出来事に対して経済を脆弱にもしてしまう.さらなる分散に必ずともなう相互関係〔の増加・強化〕により,金融機関・企業・家計の間に潜在的なドミノ効果が生み出されるからだ.この点でみると,数年にわたる経済の安定に続いて激動と著しい乱高下の期間がやってくるのも驚くべきことではないのだろう.
今述べたのと別の点でも,景気循環の終わりという神話は資本制の根本的な特性に整合しない.シュンペーターがかつて論じたように,市場システムの機能とその本質をなすイノベーションの活発な変遷には,既存の企業・手法・製品が新しいものに取って代わられる創造的破壊が大いに関わっている.創造的破壊の多くはミクロのレベルで生じる.しかし,すべてがそうだというではない.多くの企業は大きく,その中核的な事業が新たな企業や製品に取って代わられると経済全体に影響が及ぶ.さらに,多くの汎用技術は様々な企業によって多種多様な事業部門で共有されている.このため,その失敗と新たなプロセスによる潜在的な交替も全体に波及効果をもたらす.これと同じく重要なこととして,企業や個人は不完全情報下で意志決定し,お互いや過去の実践から学習する.この学習プロセスによって,さらに経済の様々な主体〔エージェント〕による行動の相関や連動が加わる.このことによって,創造的破壊がなされる領域がミクロからマクロに拡張される.
資産価値の大幅な下落と多数企業の同時破綻は,全体的な不安定は市場システムの一部なのだという点に注意を促す.我々にはこうした不安定性が付きまとっていることを理解するなら,不安定性の様々な源を解釈しどの要素が市場の効率的な機能に関連していてどの要素が避けうる市場の失敗から帰結しているのかを区別する助けとなるモデルに注意を向け直すこととなろう.全体の不安定性に関してさらに深く研究するには,我々の経済・金融システムがますます相互の結び付きを強めることが資源配分と企業・個人両者によるリスクの分散・共有にどう影響するのかについて概念的・理論的な検討が必要となる.
[第二の観念]
あまりに安易に受け入れられた第二の観念は,資本主義経済が制度不在の真空に生きており市場は機会主義的な行動をまるで魔法のようにモニターするというものだ.市場が制度に根ざしていることを忘れると,自由市場イコール規制なき市場だと間違って同一視してしまう.たしかに,拘束なき市場すらその基礎には法や制度があって,これらによって財産権が保証され契約履行が確実になり企業の行動や製品・サービスの質が規制されることは理解されているものの,しかし,市場を概念的に把握するにあたって,市場取引を支える制度や規制の役割はますます捨象されるようになっている.なるほど,この15年にわたって制度には以前よりも注目が集まっているのはたしかだ.しかし,その際に考えられていることと言えば,制度の役割を理解しなくてはならないのは貧しい国々がなぜ貧しいのかを理解するためであって,先進諸国における繁栄の継続を保証した制度の性質を調べますます発展する経済関係を前にどう制度が変わるべきかを検討するためではない,というものなのだ.市場を支える制度の重要性に関する健忘症ぶりでは,我々〔経済学者〕も政策立案者たちと歩調を合わせている.彼らが引き寄せられているのはアイン・ランドの小説から派生したイデオロギー的な観念であって経済理論ではないのだ.世界について考える際のアジェンダ,そしてさらに悪いことにおそらく経済学者の政策アドバイスのアジェンダすら政策立案者たちの政策とレトリックによって設定されるのを我々は許してしまった.後から考えるなら,規制されず利潤を追求する個人たちが自らは利益を得る一方で他者は失うようなリスクを取ってきたのも驚くにあたらないと言うべきだろう.
しかし,いまの我々はもっと多くを知っている.今日では,市場のモニターが機会主義的な行動に対して十分に有効だと主張する人はほとんどいないだろう.大学内外の多くの人々は,これを経済理論の失敗とみなしているかもしれない.私は,そう結論づけることに強く反対する.逆に,市場は制度が作り上げた基盤の上に営まれていると認識することで,理論も実践もともに豊かになる.手始めに,市場取引の理論をその制度と規制の基盤とよりよく整合するように構築することから出発しなくてはならない.また,規制の理論,企業・金融機関の両方の規制の理論にも目を向けねばならない.規制の理論に新鮮な活力を与え,できれば現在の経験から新たに得られた知見の盛り込まれたものにすること.経済学という学問は,深くて重要な知見をもたらしてくれる.それは,強欲は理論上はよいものでも悪いものでもない,という知見だ.しっかりした法や規制による保護のもとでの利潤最大化を目指す競争的・革新的な行動に結びついたとき,強欲はイノベーションと経済成長のエンジンとして機能できる.しかし,しかるべき制度や規制によるチェックを受けないときには,強欲はレントシーキング・不正・犯罪へと堕落する.我々の社会に暮らす多くが必ず所有することとなるもの,それはこの強欲を管理する集合的な選択だ.正しくインセンティブ・システムと報酬構造を構築してこの強欲を包摂し進歩の原動力に変えるにはどうすべきか,その手引きを経済理論は与えてくれるのだ.
[第三の観念]
近時の出来事で打ち砕かれた第三の観念は,一見するとあまり明瞭ではない.これは私自身が強く信じていた観念でもある.我々の論理とモデルの示唆によれば,個人を信用できないとき,とりわけ情報が不完全で規制が欠陥品であるときにすら,長く存続してきた企業なら自らをモニターするだろうと信用できるとされる.こうした企業,エンロン,ベアー・スターンズ,メリル・リンチ,リーマン・ブラザーズといった企業は「評判資本」を十分に蓄積しているからだ.2000年代前半に起きたエンロンその他の大企業の会計スキャンダルによって,長期存続してきた組織への我々の信頼は揺るがされたものの,それ以後も持ちこたえ続けた.〔だが〕それもいま致命的打撃を受けているのかもしれない.
組織による自己モニター能力を信頼するとき,我々は2つの決定的な難点を無視していた.第一に,企業内部ですら,モニターは個人(最高責任者・部長・会計担当者など)によってなされざるを得ないということ.自分が残余請求権者とならない天文学的リスクを取りたがっている株式仲買人のインセンティブは盲目的に信用すべきでなかった.それと同じように,単に大組織の一員だからという理由で他人をモニターする個人を信用すべきではなかったのだ.第二点はこの世界についての我々の考え方にとっていっそう悩ましい:評判にもとづくモニター〔がうまく機能する〕には,失敗が厳しく罰せられることが必要となるのだ.しかし,特定の資本とノウハウの欠乏が意味するのは,そうした処罰は当てにならないことがよくあるということだ.2008年の秋の金融ベイルアウトを支持してなされた知的議論は,このようなものだった:「今般の問題に明らかに責任がある組織といえども救済し梃子入れすべきだ,なぜなら現在の難局から我々を脱出させるだけの「特定の資本」を有しているのはこうした組織以外にないのだから.」 これは妥当な論証ではない.また,これは現在の状況に特有なものでもない.誠実さで妥協し質を犠牲にし不必要なリスクを取ろうとするインセンティブが存在するときには,必ず,大半の企業は揃ってそうする.この行動を罰することで生じる特定のスキル・資本・知識の事後的空白は,まさにそうした対応を社会にとってあまりに高くつくものにしてしまうから,あらゆる種類の処罰は有効性と信頼性を失うことになるのだ.
こうした推論の道筋から我々の思考に得られる教訓は2つある.第一に,市場取引における企業の評判の役割を再考する必要がある.一般的な均衡──いくつかの企業の評判が同時に失墜したときにそうした企業のスキルと専門的知識がもつ希少価値──を考慮に入れて考え直すのだ.第二に,組織の経済学が提示する主要な問いに立ち戻り,純割引現在価値を最大化しようとする仮説上の責任者の行動から企業の評判が派生するのではなく,重役たち・部長たち・従業員たちの行動と相互作用から企業の評判が派生するよう問い直す必要がある.
経済学界の来し方に目を向けると,自分たちがいつも重要な経済学の洞察を見失い政策立案者たち以上の先見の明をもつことがなかった点を嘆くことはいつでもできる.また,今般の惨状につながることとなった知的風潮に自分たちが相乗りしてきたことを非難することもできる.しかし,明るい面に目を向けるなら,この危機は経済学の活力を増し,危機に関連するいくつかの刺激的な難問を浮かび上がらせもした.その問いは,リスクに対応する市場システムの能力に関するものから,創造的破壊のプロセスが引き起こす相互結合と分裂,さらにはよりよい規制のフレームワークの問題や基礎をなす制度と市場・組織の機能の関係の問題にまで広くわたる.これからの10年で,才能ある若い経済学者が取り組むべき新しい有意義な問題を見つけるのに苦労することはなさそうだ.
我々の知的財産からの教訓 (Lessons from our intellectual endowment)[]
[pp. 7-10]
我々が愛好しているさまざまな観念にはたしかに再考が必要だが,我々の知的資産の一部となっているいくつかの原理は,いかにして今の事態に至ったのかを理解しこの危機に対応する際に我々が(とくに重要なのは政策立案者たちが)犯すであろうもっとも重大な政策の間違いに対して警戒するのに有益なものもある.私の知的背景を踏まえれば読者も驚かないだろうが,私の考えでは,こうした原理は経済成長と政治経済に関連している.
[経済成長]
第一に,経済成長の諸問題に留意すべき理由は明らかだ.グローバルシステムの完全な崩壊でもない限り,このグローバルな危機の惨状があってもなお,大半の国にではGDP損失はせいぜい2パーセントの範囲に収まる.また,この損失の大半は,この数年の経済の行き過ぎた膨張を考えると不可避だったのかもしれない.対照的に,経済成長のわずかな変化であっても、それが今後10年~20年積もればずっと大きな数字になってしまう.よって,政策・厚生の観点からみて,経済成長を犠牲にして現在の危機に対応するのはまずいことは自明だろう.
経済成長が注目に値するのは,たんに意味のある厚生の計算で重要だからというだけでなく,成長の多くの側面とその主要な源がかなりよく理解されているからでもある.物的資本・人的資本・テクノロジーが生産活動と成長の決定要因として果たす役割については広く理論的・実証的な合意ができあがっている.しかし,イノベーションと再配分が経済成長の波及で果たす役割も同じくらい理解されており,また,イノベーション・再配分・長期的成長を可能にする制度的フレームワークの概要も認識されている.
近時の出来事によってイノベーションの重要性が疑わしくなったわけではない.その反対に,この20年間にわたって我々が豊かさを享受してきたのは急速なイノベーションのおかげだ──金融的なバブルとその問題とはかなりの部分が無関係だ.ソフトウェア,ハードウェア,遠隔通信,医薬品,バイオテクノロジー,エンターテインメント,そして卸売り・小売りにおける新たなイノベーションは猛スピードで進んだ.こうしたイノベーションが,この20年間にわたる総生産性の向上の大部分に貢献している.金融のイノベーションすら,近時の危機でいくぶん悪評がたったものの,大半の場合には社会的に価値あるものであり成長に貢献してきたのだ.複合担保 (complex securities) はその不利益を無防備な人々に負わせるかたちでリスクをとるのに悪用された.しかし,複合担保は適切に規制されればより洗練されたリスクの共有・分散の方略を可能にしてくれる.複合担保は企業が資本のコストを減少させるのを可能にしてきたし,最終的にはこれからも可能にしてくれるだろう.技術発明は資本主義経済の繁栄と成功の鍵だ.新しいイノベーションとその実用・マーケティングはこの危機の後で再興した経済成長で中心的な役割を果たすことだろう.
経済成長のもう一本の支柱は再配分だ.イノベーションはしばしばシュンペーター流の創造的破壊のかたちをとって登場するから,旧来のテクノロジーに頼る生産過程と企業が新たなものによって置き換えられることが伴う.しかし,これは資本主義的な再配分のひとつの側面にすぎない.市場経済について回る不安定性は,生産性や需要で他にまさる企業・サービスを絶え間なく入れ替えるというかたちをとって現れもする.おそらくいまはいっそう強まったグローバルな相互結合ゆえにかつて以上に強くなっていることだろう.こうした不安定性は防御すべき呪いなのではなく,その大半は市場経済にとっての好機なのだ.生産性と需要のあるところに資源を配分することで,資本主義システムは不安定性を利用することができる.過去20年の発展は再配分の重要性に再び焦点を当てた.経済成長は通常,生産活動・労働者・資本が多くの既存企業からその競争相手へ,アメリカをはじめとする先進諸国が比較優位をもたなくなったセクターからその優位が強まったセクターへと移動するのと相伴って生じるからだ.
[政治経済]
私が強調したい最後の原理は成長の政治経済に関連している.経済成長が生じるのは,イノベーション・再配分・投資・教育を促進する制度と政策をその社会が創出したときに限られる.しかし,そうした制度を当然視するべきではない.経済成長がもたらす再配分と創造的破壊ゆえに,経済成長の特定の側面に反対する勢力が常に存在する.これらはしばしば強力な勢力となっている.多くの発展途上経済では,成長の政治経済の鍵となるのは既存の生産者・エリート・政治家が政治的アジェンダをハイジャックして経済の成長と進歩にとって有害な環境を創出することのないようにすることだ.経済成長の制度的基礎に対するもう一つの脅威はその最終的な受益者からやってくる.創造的破壊と再配分はたんに既存の事業だけに不利益をもたらすのではなく,その労働者や供給者にも不利益をもたらすし,ときには何百万という労働者・小作農者の生計を破壊することすらある.そのため,不運なショックや経済危機に見舞われ困窮した人々は市場経済に背を向けてポピュリスト的な政党を支持し経済成長に対する障壁を築くことになりやすい.とりわけ,その政治経済が効果的なセーフティネットを構築することのなかった社会ではこれが顕著となる.こうした脅威は途上国だけでなく先進諸国にとっても重要だ.とくに現在の経済危機のさなかにあってはいっそう重要となる.
政治経済の重要性は近時の出来事によって強調されることとなった.過去20年にわたる投資銀行ひいては金融産業の失敗の顛末,そして,政治経済をいくらかなりと参照することなく承認されたベイルアウト・プランの成り行きについて語るのは難しい.合衆国はスハルト治下のインドネシアでもマルコス治下のフィリピンでもない.しかし,そういった極端な例を持ち出さなくとも,上院・下院議員の選挙活動に金融産業が何百万ドルも寄付すればその生計に影響する政策に多大な影響が出ることや,投資銀行家が元パートナーや同業者に対する規制を監視されずにつくりあげれば──あるいは場合によってはつくり損ねれば──政治経済的な問題につながることは想像できるだろう.いま住宅や生計を失った人々が感じている市場への反発によって現在または未来の政策が影響されないというシナリオも描きにくい.
不在の教訓 (Absent lessons)[]
[pp. 10-13]
グローバルな危機を抑え収束させる政策の設計は多くの経済的要因を考慮してきた.しかし,それらが長期の経済成長・イノベーション・再配分・政治経済におよぼすインパクトは顕著なものとなった──危機に続いてなされた論議に登場しないというかたちで.
銀行ひいては金融部門,自動車製造業その他のベイルアウトを含む大規模な刺激策は間違いなくイノベーションと再配分に影響する.これは刺激策を支持しない理由ではない.ただ,その含意を全て検討するのが重要だということだ.現在の刺激策の多くの特徴の帰結として明らかに再配分は悪影響を受ける.市場のシグナルは,労働と資本はデトロイトのビッグスリーからよそへ再配分されるべきであり,また高度のスキルを持つ労働者は金融産業からもっとイノベーションの盛んな部門に再配分されるべきだと示唆している.過去20年間にわたりウォールストリートが多くのもっとも優秀な(そしてもっとも野心的な)頭脳を惹きつきてきたという事実を考えれば,後者の再配分は決定的に重要だ.また,たしかにこうした優秀な若い頭脳は金融のイノベーションに貢献してきたものの,彼らはその才能を使って大きなリスクを取りつつもその不利益は自らが負わないようにする新手法の工夫を凝らしてきたこともいまや認識されている.再配分が停止されるということはイノベーションが停止されるということでもある.
現在の危機とこれへの我々の政策的対応の結果として直接に被害を受けるかもしれない潜在的なイノベーションの分野はさらにいくつかある.小売り・卸売りとサービス提供の改善は疑いなく消費者需要の縮小とともに減速する.来る10年とその先でイノベーションの主要な分野となるエネルギー分野もその被害者となるかもしれない.代替エネルギー源への需要は危機以前には強く,ちょうどコンピュータや医薬品,バイオテクノロジーがそうだったのと同じように,科学と営利の力強い相互作用を伴うプラットフォームとなるのは確実と思われていた.〔しかし〕石油価格が下落し,また,切望されていたガソリン税の見込みが薄くなったのに伴い,こうした勢いの一部は間違いなく失われている.もしベイルアウトが自動車企業の適切な再編に結びつかなければ,新しいエネルギー効率のいいテクノロジーを推し進めるもうひとつの重要な要因もまた虚しく失われよう.
こうした懸念があってもなお,包括的な刺激策をとるのをやめる十分な理由にはならない.しかし,私見ではこれを支持する理由は景気後退の衝撃を和らげることにあるのではなく,ここでも経済成長に関連している.我々が直面しているリスクは「予期の罠」のひとつだ──消費者と政策立案者たちは将来と市場の約束について悲観的になっている.予期の罠がどのようにして生じそこからどのような経済的力学が解き放たれるのかを正確にわかるほど十分に理解されてはいない.だからといって,それで予期の罠がもたらす危険を否定されるわけではない.消費者が耐久財の購入を延期すれば確実に大きな影響がでる.とりわけ,在庫がすでに多くある上に貸し付けが渋くなっているときにはなおさらだ.この種の予期の罠は景気後退を深く長いものにし,必要不可欠な創造的破壊と再配分ではなく多数の事業の倒産・清算を引き起こす.
しかし,私の見解では,予期の罠と深刻な景気後退のもっと大きな危険は別のところにある.今日の経済的惨状の原因は自由市場にあると消費者や政策立案者が信じるようになり,市場経済を支持しなくなるかもしれない.そのとき,振り子が振り切れて,政府が自由市場の基礎として必要な規制のみならず重度の介入をする時代に逆行することになるだろう.そうした揺り戻しとそれがもたらす反市場政策はグローバル経済が今後成長してゆく展望にとっての真の脅威だと私は思っている.財やサービスの貿易にかけられる制限がその第一歩となるだろう.これと同じくらい有害な,再配分とイノベーションを阻害する産業政策が第二歩として続く.ベイルアウトと選別された部門の保護が語られているときには,貿易の制限と産業政策に関するより包括的な提案が曲がり角まで来ているのだ.
不完全な点があるにせよ,包括的な刺激策こそこうした危険を撃退する最良の方法だろう.また長短を斟酌してみれば,憂慮する市民と並んで大学のエコノミストにとっても,我々が直面するかもしれない最悪の結果にたいする保険として現在の対応策を支持する十分な理由はある.とはいえ,刺激策は再配分とイノベーションのプロセスに最小限の混乱しか引き起こさないようにその詳細を設計するべきだ.現在の恐れを理由に成長を犠牲にするのは無為無策と同じくらいの失策となろう.
資本主義システムへの信用が瓦解するリスクを無視してはならない.結局のところ,過去20年間は資本主義の勝利として言いふらされた以上,その後にやってきた苦い事態は資本主義システムの失敗にはちがいないのだから。このような結論に私が反対することはなんの驚きでもないはずだ.資本主義システムの成功は規制なき市場に見出されるものではなく,またそれに基づくものでもなかったと私は考えているのだから.さきほど述べておいたように,いま我々が経験しているのは資本主義や自由市場そのものの失敗ではなく,規制なき市場の失敗,それもとくに規制なき金融部門とリスク管理の失敗なのだ.だから,このことで市場経済の成長について悲観的になることはない──市場は堅固な制度的基盤にもとづいているのだ.しかし,過去20年のレトリックでは資本主義を規制の欠如に同一視していたから,家や仕事を失った多くの人々にとってそのようなニュアンスは失われることだろう.
このように反発〔バックラッシュ〕は避けがたい.問題は,それをどう抑えるかだ.しかるに,この数ヶ月になされた政策的な対応は事態を悪化させるばかりだった.一般国民が、市場は評論家たちが喧伝するほどうまく機能しないと考えるのは仕方ない.〔だが〕市場は金持ちや権力者たちが、他人をダシにして自らの懐を潤す方便にすぎないと彼らが考えたら,幻滅のレベルがまったく異なる.しかし,ベイルアウトを設計しているのが銀行家たちで、銀行家を助けるような中身で、さらにこの大失敗の責任者たちへの被害を最小化するようになっていたら,国民は当然のようにそう考えてしまうだろう。
本稿は景気刺激とベイルアウト提案を改善するための具体的な場ではないし,その専門知識を私は持ち合わせていない.たしかに経済学という学問は現在の危機の形成に部分的に共謀していたが,我々には政策立案者たちに伝えるべき大事なメッセージがある.それは,ベイルアウト案の詳細に関するものではない.そちらについては多くの評論家たちが意見を表明しようとやたらと熱心になっている.そうではなく,我々のメッセージは長期の展望に関するものだ.我々はイノベーション,再配分,そして資本主義システムの政治経済的基盤に現在の政策提案がもたらす帰結について声高く強調するべきだ.経済成長はその議論の中心部分となるべきだ.それが後付の議論であってはいけないのだ.